230324-230330
3月24日(金)
木曜日はボイプラで、放送が終わった後に旦那とあれこれ喋るから寝るのが1時過ぎになる。普段から朝方な私は犬の散歩もあるので毎朝5時起きだ。だから金曜日は会社から帰ってくると睡眠不足でぐったりしてしまう。今日はバッテリー切れで21時に寝た。そして3時に起きた。これが健康的なのか分からないし、この文章は金曜日の日記で書くべきか土曜日の日記で書くべきか悩む。昨日と今日が繋がってる。私が起きていることに旦那も犬も気づいていない。誰の気配もしない。新聞配達のバイクの音と雨音だけが聞こえた。
3月25日(土)
5時になったら走りに行こうと思ったのに雨は降りやまず。土日に天気が悪いと100円ぐらい損した気分になる。100円で買えるものは少ないけれどされど100円ぐらいのあの損だ。でもそれぐらいの損なら大したダメージではないし、そもそも天気ごときで得だ損だと打算的に考える自分の心が貧相すぎて反省していたら犬が起きてきた。
SpotifyからClairoの”4ever” リリース日を見たら2018年。ついこないだ出たと思っていたのに5年前の作品で驚いていたら旦那が起きてきた。
朝ごはんはスクランブルエッグとシナモンナツメグトースト。シナモンシュガーとナツメグの瓶の蓋の色が同じで間違ってナツメグをトーストにふりかけてしまった。朝から二人でウエッとなる。
3月26日(日)
雨降りすぎ。桜が散らないように念を送る。
旦那がハリポタのゲームをやり始める。USJでハリポタの落ちるアトラクションに乗ったり、キングスクロスの駅で9と3/4番線の壁の近くを2度も通り過ぎたり、カメオでイアン・ブラウンが出てるって聞いたり、9と4分の3番線で君を待ったり、ハリポタを見るタイミングは何度もあったのに二人ともハリポタは見ていない。でもゲームの影響で旦那が今日からハリポタを見始めた。見ていないのは私一人になった。夜はちょっと高い焼肉を食べに行った。
3月27日(月)
ここ数ヶ月、通勤電車で新聞を読むおじさんをよく見かけるようになった。今日も車内ヴィジョンを見るフリをして辺りを見渡すと、三人のおじさんたちが縮こまりながら新聞を広げている。おじさんたちは、新聞を縦長に折り曲げ表に裏にクルクル回し、めくりまた折りたたむ。バサバサ、カサカサという音が電車のガタンガタンという音と混じり、印刷インキと油の匂いが狭い車内に充満する。降りる駅まで量産されたロボットのように同じ動作を何度も繰り返す。新聞を読むのが流行っているかなと思ったけど、リモートで家に閉じ込められていたおじさんたちが世に放たれただけかもしれない。新聞という武器を片手に出社するおじさんたちは、インクの匂いを振りまき定年の夢を見て、私は家で読めよと言いたくなった。
3月28日(火)
となりに住むおじいちゃんは元弁護士さんで、頭が良くなんでも知っていて、とても品がある人だ。でも普段は知的なおじいちゃんもお酒を飲むと少し様子が変わる。週に三回ぐらい晩酌に出かけ、私が庭で犬と遊んでいると、いい感じに酔っ払って帰ってきて「こんばんはー!」と大きな声で挨拶してくる。そしてうちの犬の名前を呼び「私は犬の言葉が分かるんですよ」と真面目な顔で「ワンワン」とか「バウバウ」とか「ウーッ」と犬語を話し、犬も対話を試みるよにワンワンと吠え、なにやら二人で語り合う。それを薄ら笑いで眺める私。
家に戻ると全てを見ていた旦那が「なにを喋ってるんだろ」と聞いてきた。私は「でっかいチンチンだね、今度見せ合いっこしよう!」と答えると「ジャニーズなの?」と旦那が犬に聞いていた。
3月29日(水)
アボカドとクレソンが手に入りにくい町に暮らしてる。
国語の教科書と便覧はもらったその日に全部読んだ。特に文学資料集である便覧が大好きで、授業そっちのけで便覧をめくっていた記憶がある。今思えばとっておけばよかったけど、引越しが多い家庭だったのもあって全て捨ててしまった。
1968年版筑摩書房の太宰治全集の値段を見ていた時に(ずっと欲しい)ふと便覧のことを思い出した。あれだけ眺めていたのにも関わらず記憶に残っているのは十二単や火鉢のイラスト絵だけだ。近代文学作家の生涯も書いてあったはずだけどよく思いだせなくて早速買ってみることにした。選んだのは浜島書店「最新国語便覧」と京都書房「新訂国語図説」「新国語総合ガイド」の三冊。浜島書店に関してはフェルメールの真珠の耳飾りの少女の絵が表紙だ。美術書か。とりあえず楽しみにしながら届くのを待つ。
3月30日(木)
”インターネットは君に愛を伝えるために生まれた”と歌ったのはハバナイだけれど、ボイプラの練習生が様々な理由で叩かれてると愛なんてないなぁと思う。逆に過剰に擁護するのも俯瞰で物事が見えなさ過ぎて同意しづらくもある。インターネットに関してボジティブな思考だけど、自分の考えの一部にWeb2.0が影響していて、ネットは知的営みを共有しさらにそれを相互に発展させていくという、ちょっとした希望みたいなのが未だに自分の中にある。だから意味のない論争を見る度に幻滅してしまう。集合知性の期待はすでに古い考えだしそろそろ捨てなければいけないのだけど、尊重と信頼がない対話は傷つけ合うだけで無意味だ。
誰の言ってることもだいたい正しく、だいたい間違ってる。勝ちでも負けでもなくそこから何を話すのかが重要で”インターネットは君に愛を伝えるために生まれた”けれど、自分を含めて愛のない言葉を発するのことはいとも簡単だ。